ハマノホテルズ │ HAMANO HOTELS

温故湯新

〜創業の歴史と新たな夢への軌跡〜

想いをつなぐ。軌跡寫眞館 想いをつなぐ。軌跡寫眞館

定山渓の古きを温ね、新しいホテルの姿に思いを馳せる― 定山渓の古きを温ね、新しいホテルの姿に思いを馳せる―

昭和21年(1946年)、定山渓で旅館を始めた。その後初代・濱野邦喜(はまのくによし)はみずから温泉源を掘り当て、定山渓グランドホテルを開業しました。今、新たな夢に向かう私たちのホテルの軌跡を慶応2年(1866年)の開湯から2世紀となる定山渓温泉の歴史とともにご紹介いたします。 昭和21年(1946年)、定山渓で旅館を始めた。その後初代・濱野邦喜(はまのくによし)はみずから温泉源を掘り当て、定山渓グランドホテルを開業しました。今、新たな夢に向かう私たちのホテルの軌跡を慶応2年(1866年)の開湯から2世紀となる定山渓温泉の歴史とともにご紹介いたします。

初代・濱野邦喜(はまのくによし)
純和風高級旅館「佳松御苑」誕生 平成へ、事業総仕上げ 純和風高級旅館「佳松御苑」誕生 平成へ、事業総仕上げ

ムイネグランドを全面リニューアル

定山渓温泉で、確固たる規模と地位を築き上げた邦喜は、景気の拡大が続き、のちの“バブル経済”と呼ばれる時代を機に、ムイネグランドホテルの大改修を決断します。それは昭和44年(1969年)に薄別温泉にオープンさせたムイネグランドホテルを伊豆や熱海の高級旅館にも負けない純和風高級旅館に建て替えるというもので、三笠宮崇仁親王・百合子両殿下が散策された佳松園にあやかり、名称は「佳松御苑」と決めて、昭和63年(1988年)大改修工事が始まりました。そして、平成元年(1989年)10月、新たな時代とともに誕生した旅館は清流薄別川の水を湛えた池に浮かぶ数寄屋風の建物で、客室数は10室。水上に張り出した演舞台では能や狂言などの伝統芸能が上演され、大広間の畳を上げれば虹鱒釣りも楽しめるという工夫がなされるなど、大人の遊び心に満ちたまったく新しいものでした。同時に、豪華な建物設備の“高級旅館”の名に溺れない「心のこもったおもてなし」を目指す邦喜のホテル経営者としての総仕上げとなったのでした。

ムイネグランドホテル・庭園の池にて 邦喜(中央)と利子(右端)
ムイネグランドホテル・庭園の池にて 邦喜(中央)と利子(右端)
大理石でしつらえた「やすらぎ館」のロビーホール オープンしてすぐに当時のテレビ番組“北の群像”で紹介され、定山渓の紅葉とともに大きな反響を呼んだものだ

邦喜、戦地メレヨン島へ

「佳松御苑」を無事にオープンさせた翌年、邦喜は妻利子とともにメレヨン島へ慰霊の旅に出かけました。思えば、昭和19年(1944年)、玉砕組として上陸したメレヨン島は邦喜の不屈の精神を築き上げた原点であり、共に窮地の時を過ごした戦友たちが眠る場所でした。グアム島から船を乗り継ぎ、45年ぶりにたどり着いたその島には「メレヨン会」が建立した慰霊碑が立ち、邦喜はその前で静かに手を合わせて、戦友の霊を心から慰めました。この島での戦時の出来事は詳しく語ることをしてきませんでしたが「私は生き残った者の務めとして戦友や部下の分まで頑張ってきましたが、慰霊を果たして、いくらか肩の荷が下りたような気がいたします」。後に社内報にこう綴った邦喜の心には古希を迎えてもまだ、戦友への思いが深く刻まれていたようです。(メレヨン島で戦没した北海道出身者は1,300名を越えました)

メレヨン島への墓参で、数珠を持ち合掌する邦喜
メレヨン島への墓参で、数珠を持ち合掌する邦喜

邦喜会長、利子社長体制へ

定山渓グランドホテル、定山渓ニューグランドホテル、佳松御苑の3館の温泉ホテルを軌道に乗せ、平成7年(1995年)11月、創業から50周年を迎えた邦喜は代表取締役社長の座を利子に譲り、自らは会長に就任しました。社長就任の挨拶に「会長と苦楽をともにした50年は本当に感慨無量なものがある」と記した利子はその後も邦喜と二人三脚でホテルを守り、定山渓グランドホテルに熱帯魚水族館を設置。1300平方メートルの定山渓一の広さを誇る大露天風呂も完成させました。“ホテルは常に変化していかなくてはならない”と口にしていた思いを垣間見ることができます。そして平成11年(1999年)、邦喜は父増次郎、兄豊が築いたホテル万世閣(㈱萬世閣)の代表取締役会長となり、豊の次男で同社の社長を務める浩二(現・ハマノホテルズ代表取締役社長)を定山渓グランドホテルの代表取締役に指名。邦喜、利子、娘の由貴子、甥の浩二と一層深い絆を築き、濱野家として21世紀に向けての決意を示したのでした。

かっぱ神輿とともに温泉街を練り歩く〝邦喜かっぱ〟
1300平方メートルを誇る大露天風呂(かがり火の湯)
翌2000年の節目に新体制で創業55年を迎えられると思うと感慨深いものだった