ハマノホテルズ │ HAMANO HOTELS

温故湯新

〜創業の歴史と新たな夢への軌跡〜

想いをつなぐ。軌跡寫眞館 想いをつなぐ。軌跡寫眞館

定山渓の古きを温ね、新しいホテルの姿に思いを馳せる― 定山渓の古きを温ね、新しいホテルの姿に思いを馳せる―

昭和21年(1946年)、定山渓で旅館を始めた。その後初代・濱野邦喜(はまのくによし)はみずから温泉源を掘り当て、定山渓グランドホテルを開業しました。今、新たな夢に向かう私たちのホテルの軌跡を慶応2年(1866年)の開湯から2世紀となる定山渓温泉の歴史とともにご紹介いたします。 昭和21年(1946年)、定山渓で旅館を始めた。その後初代・濱野邦喜(はまのくによし)はみずから温泉源を掘り当て、定山渓グランドホテルを開業しました。今、新たな夢に向かう私たちのホテルの軌跡を慶応2年(1866年)の開湯から2世紀となる定山渓温泉の歴史とともにご紹介いたします。

初代・濱野邦喜(はまのくによし)
波乱万丈、人生50年の節目に ~昭和46年、ニューグランドホテル竣工~ 波乱万丈、人生50年の節目に ~昭和46年、ニューグランドホテル竣工~

ニューグランドホテル開業

邦喜が決意した定山渓ニューグランドホテル新築計画は、土地の入手や融資の交渉、設計事務所とのやり取りなど数々の困難が立ちはだかり、邦喜にとって人生の分かれ道とも言えるものでした。着工か、延期か、断念か。毎晩、うなされるほどの苦悶にあえいだ邦喜はこの頃から比叡山延暦寺根本中堂への参詣を重ねるようになりました。それは事業の将来を胸中秘かに確かめ、思索するための行動でした。昭和46年(1971年)7月1日、遂に定山渓ニューグランドホテルは開業の日を迎えます。館内では昭和21年(1946年)に始めた富久井旅館(のちに福住旅館)25周年、定山渓グランドホテル15周年、ムイネグランドホテル3周年の写真展を催し、邦喜は安堵の表情を浮かべたのでした。

この開業で、疲労はピークに達し、体重が5kgも減ってしまったなあ
ニューグランドホテル開業
完成した定山渓ニューグランドホテル

定山渓屈指の高級ホテル

地上9階、地下2階建て、全館冷暖房の最新設備を備えた定山渓ニューグランドホテルはマスコミにも大きく取り上げられ、華々しいオープンを飾りました。特に注目されたのは金箔を張った大浴場で、定山渓で初めての1泊1万円の価格設定は他の温泉ホテルへも影響を与え、定山渓温泉は高価格化へと進んでいきます。そして、第11回冬季オリンピック札幌大会が開催された昭和47年(1972年)に札幌市は政令指定都市となり、定山渓は札幌市南区となりました。翌年、定山渓温泉は神戸市の名湯、有馬温泉と姉妹都市提携を締結。定山渓の名が全国へ知られるようになったのも、邦喜の功績があったからにほかならないのです。

伊豆船原ホテルの純金鳳凰風呂での1枚。(昭和48年4月)

金箔を張った、その名も〝黄金大浴場〟
金箔を張った、その名も〝黄金大浴場〟

昭和25年の福住旅館大浴場
昭和25年の福住旅館大浴場

当時新築した総大理石造りの大浴場も注目されたもんだ

邦喜、叙勲の栄誉に輝く

昭和48年(1983年)6月、邦喜のもとへ届いた吉報は、勲八等瑞宝章受章の知らせでした。この時、終戦から28年。振り返れば、昭和16年(1941年)の入隊後、最も過酷を極めたメレヨン島での経験が邦喜の不屈の精神の源となったことは言うまでもありません。この前年の9月7日、邦喜にとって、心の支えであり、かけがえのない存在だった兄・豊(二代目濱野増次郎)を53歳の若さで亡くした悲しみも癒えないまま、叙勲を授受した邦喜は自らの半生を綴った「戦いと平和の憶出」を執筆。波乱万丈に満ちた人生50年の歩みを振り返り、「初期を忘れるべからず」と結んでいます。その後、邦喜はホテルの営業を妻利子らに任せ、しばらくの休養を宣言して、次なる戦略を温めていきました。

元気な頃の豊

小樽商業時代の兄・豊(左)と邦喜
小樽商業時代の兄・豊(左)と邦喜

兄を亡くした時は2年近く、何もする気が起きなかったほどつらかった

愛すべき鬼社長

定山渓ニューグランドホテルをオープンさせた時、邦喜は満50歳。陰では‘鬼社長’と呼ばれ、従業員にも妻利子にも厳しく接してきた邦喜でしたが、実直ゆえの人間らしいエピソードも残されています。ホテルに労働組合が結成され、激しい団体交渉を繰り広げた時、非組合員の従業員たちが邦喜を拍手で出迎えたのは厳しくも信頼される経営者であったからでしょう。社員の給与袋に一言メッセージを添えて、渡していたこともありました。また、父増次郎、兄豊と酒を酌み交わしていた頃は家族が警戒警報を出すほど、喧嘩も絶えなかったそうですが、「叔父のくしゃみが酔った時の合図だった」と甥の浩二(現・ハマノホテルズ代表取締役社長)は笑って話します。豊が急逝し、まだ大学生だった浩二が社長に就任した時は後見人となって、厳しくも適切に浩二を教え導いていきました。