ハマノホテルズ │ HAMANO HOTELS

温故湯新

〜創業の歴史と新たな夢への軌跡〜

想いをつなぐ。軌跡寫眞館 想いをつなぐ。軌跡寫眞館

定山渓の古きを温ね、新しいホテルの姿に思いを馳せる― 定山渓の古きを温ね、新しいホテルの姿に思いを馳せる―

昭和21年(1946年)、定山渓で旅館を始めた。その後初代・濱野邦喜(はまのくによし)はみずから温泉源を掘り当て、定山渓グランドホテルを開業しました。今、新たな夢に向かう私たちのホテルの軌跡を慶応2年(1866年)の開湯から2世紀となる定山渓温泉の歴史とともにご紹介いたします。 昭和21年(1946年)、定山渓で旅館を始めた。その後初代・濱野邦喜(はまのくによし)はみずから温泉源を掘り当て、定山渓グランドホテルを開業しました。今、新たな夢に向かう私たちのホテルの軌跡を慶応2年(1866年)の開湯から2世紀となる定山渓温泉の歴史とともにご紹介いたします。

初代・濱野邦喜(はまのくによし)
湯乃1定山渓温泉開湯 〜美泉定山、温泉場を開く〜 湯乃1定山渓温泉開湯 〜美泉定山、温泉場を開く〜

定山渓、三温泉場時代へ

美泉定山が去って以降の定山渓温泉は定山の温泉場を引き継いだ佐藤温泉(元の湯)と明治17年(1884年)開業の高山温泉(中の湯)、同28年(1895年)開業の山田(熊坂)温泉(後の鹿の湯クラブ)の三温泉場時代を経て、大正時代を迎えます。 そして、大正7年(1918年)に札幌・白石~定山渓間に定山渓鉄道(定鉄)が開通すると、鉱山の操業も相まって、定山渓温泉は行楽地としての賑わいを見せていきました

定山渓鉄道沿線案内図

定鉄開業時の機関車

定鉄は定山渓まで29.9km、1日3往復から始まったのだ

濱野邦喜、札幌で生まれる

定山渓グランドホテルの創業者、濱野邦喜は大正9年(1920年)9月17日、父濱野増次郎、母美八重の二男として札幌で誕生します。長男の豊とは一歳違いの年子。様々な商いで成功と失敗を繰り返していた増次郎は木炭取引で大金を手にし、現在の札幌市中央区南2条西7丁目に店を構えるほどになりましたが、ある時、木炭にはならないナラの原木に手を出したことが裏目に出て、事業に失敗してしまうのでした。

邦喜の父 増次郎が経営した薪炭店

濱野家、定山渓の地へ

札幌での木炭事業を手放し、大正15年(1926年)、定山渓に移住した濱野家でしたが、増次郎は「鹿の湯クラブ」で支配人として働いた後、今の二見橋辺りで精肉(雑貨)店を始めます。兄豊とともに定山渓小学校に通っていた邦喜は8kmも離れたムイネの林業の宿舎まで犬ぞりで荷物を届けるなど、厳格な父のもと、家業の手伝いをさせられました。しかし、この時代こそが邦喜の商売の原点であり、豊・邦喜兄弟は温泉街の人たちから「真面目で堅物の代名詞」と言われるほどでした。後に邦喜は「商品の氷水を運ぶ途中、友達が川遊びをしているのをうらやましく眺めていたら、氷が溶けて、親父にこっぴどく叱られた」と懐かしんでいます。

増次郎が経営した精肉店

ゲンコツ親父だった父の厳しさが原点となったのだ

邦喜、入隊、戦地へ

昭和5年(1930年)になると、増次郎は「料亭福住」を手に入れ、旅館経営にも乗り出します。勉強にも仕事にも厳しかった増次郎のもと、先に小樽の学校に進学した豊を追って、邦喜は小樽の商業高校に入学。ふたりは同じ布団で寝るほど仲が良く、豊が作る弁当を持って通学していた邦喜でした。その後大学に進んだ豊に対し、邦喜は「そんなに勉強しなくても」と大阪での丁稚奉公を選びます。そして、戦火が激しさを増してきた昭和16年(1941年)2月、邦喜は陸軍への入隊を命じられ、その3年後には南洋のメレヨン島に上陸したのでした。邦喜23歳の時でした。

伍長の邦喜。メレヨン島へ行く前